1842年(天保13)
10・中 薩摩藩加治木島津家一門村橋久柄の嫡子として出生。昇介と命名(のち直衛、久成と改名)
1848年(嘉永元)
3.28 琉球着任を命じられた父、久柄をのせた船が破船、遭難。行方不明となる。わずか6歳にして家督を相続することになる
1864年(元治元)
11・中 薩摩藩庁において英国留学生派遣を決定
1865年(慶応元)
1.19 英国留学への藩命下る
1.20 鹿児島城下を出発。翌21日、串木野郷羽島浦に到着。密出国のため変名(橋直輔)を使用
3.22 村橋ら留学生一行、グラバー商会のオースタライエン号に乗船し、羽島浦を発つ
3.26 香港到着
4.12 シンガポール到着
5.15 スエズ到着
5.28 英国サザンプトン港到着。同日夜ロンドン到着
6.7 専攻科目を海軍学術から陸軍学術に変更
8・中 ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの法文学部に入学
1866年(慶応2)
3.28 松木弘安とともに帰国の途につく
5.24 鹿児島に到着
1867年(慶応3)
10.13~14 薩長両藩に討幕の密勅下る。徳川慶喜、大政奉還
12.9 王政復古の大号令
1868年(慶応4)
1.3 戊辰戦争起こる
5.5 弟宗之丞、薩摩藩小銃十番隊小頭見習として長岡戦に出軍
6.14 弟宗之丞、長岡にて戦死
7.16 加治木大砲隊軍監として鹿児島出発
7.22 明治天皇即位
8.24 越後松ケ崎に上陸、新発田、米沢、上ノ山を経て山形に向かう
9.8 改元、明治元年に
10・中 越後村上に滞陣
12.6 新発田、会津を経て東京へ入る
1869年(明治2)
2.19 蝦夷島共和国、ガルトネルと七重近傍の荒野99年間の租借契約締結
3.8 箱館出兵のため品川から軍艦春日にて青森へ向かう
3.25 宮古湾にて旧幕府軍艦回天と海戦
3.27 青森到着。旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監となる
4.16 乙部上陸。二股口の官軍の指揮をとり土方歳三率いる旧幕府軍と戦う
5.11 政府軍、箱館市街を制圧
5.12 箱館病院に会津藩遊撃隊長・諏訪常吉を見舞い、病院長高松凌雲を通じて榎本武揚に恭順を促す勧告書を送る
5.16 恭順を拒む千代ケ岱陣屋を攻撃
5.18 五稜郭落ち、旧幕府軍降伏。榎本らの恭順に立ち合う
5.21 蝦夷地平定。戊辰戦争終結。軍監を免ぜられる
6.1 東京帰着
7.4 嫡子亀千代、死亡(2歳)
7.8 開拓使設置。開拓長官に鍋島直正、次官に清水谷公考
7.14 鹿児島帰着
7.22 開拓判官に島義勇(後に岩村通俊、岡本賢輔、松浦武四郎、松本十郎ら)
8.15 蝦夷地を北海道と改称
8.25 開拓長官に東久世通禧
9.14 賊軍追討の戦功により金400両の賞典を下賜される
1870年(明治3)
5.9 黒田清隆、樺太専任の開拓次官となる
10.10 開拓使東京出張所を芝増上寺に置く
12.10 ガルトネルに賠償金を払い租借地を回収、七重開墾場とする
1871年(明治4)
7.7 ケプロン、アンチセルらを伴い来日
8.19 開拓使10ヶ年計画の発足(翌年から)
8.一 アンチセル、岩内郡ホリカップでホップ発見
11.28 開拓使採用。十等出仕、東京出張所在勤
1872年(明治5)
3.7 榎本武陽、赦免。開拓使採用
6.3 村橋九等出仕に昇格
8.25 開拓権大主典となる。東京三官園担当となる
1873年(明治6)
5.25 開拓大主典となる。農業課担当。宿所は東京第二大区小六区芝栄町一番地
10.29 開拓使札幌本庁舎落成
12.22 農業課七重村官園(旧七重開墾場、のち七重(現、七飯)勧業試験場と改称)在勤
12.25 屯田兵設置が決定
1874年(明治7)
1.9 札幌殖民地(屯田兵村地)取調べを命ぜられる
3・中 七重村官園300万坪の全地測量と畑地の区画を終了
3.27 札幌殖民地取調べのため函館(七重村)出発
4.5 札幌到着
4・中 屯田兵の入殖地を琴似村に決定し、200戸の兵屋建築のため同地域の伐木と測量、地区割り作業を実施
4.23 石狩川上流の石炭山調査のため札幌を出発
4.30 札幌帰着
5.4 札幌殖民地取調べを終えて、札幌を出発
5.5~10 室蘭到着。室蘭輪西殖民地(屯田兵村地)取調べ
5.11 函館帰着
5.17 屯田兵村着手報告のため函館出発
5.20 東京到着
6・中 屯田兵事務を担当
7.18 函館七重村帰任のため東京出発
8.5 屯田兵村授産用桑の苗木購入のため栃木県、置賜県(山形県)に立ち寄り、七重村に帰着
11.11 次男、圭二誕生
11.28 琴似兵村に208戸の兵屋落成
1875年(明治8)
2.4 東京出張所農業課在勤となる
3.28 ケプロン帰国
4.20 開拓使七等出仕(奏任官)となる
5.7 榎本駐露公使、樺太・千島交換条約調印
6.10 勧農本局を本庁に設けるなど勧農機構の改正を求める「勧農着手順序ノ義」の稟議書を上局に提出
8.14 北海道物産縦覧所(のち、仮博物場と改称)事務管理を命ぜられる
8.30 ドイツ帰りの麦酒醸造人・中川清兵衛を雇用し、雇用期間中は辞職は相ならぬという内容の誓約書を提出させる。麦酒醸造所建設見積書、麦酒製造入用品見積書を上局に提出
12.25 麦酒醸造所、北海道建設の稟議書を上局に提出
12.28 麦酒醸造入用品、横浜到着
1876年(明治9)
2.25 麦酒醸造所北海道建設を促す稟議書を再提出。北海道実地建設までの仮払い稟議書を提出
3.23 麦酒醸造所北海道建設稟議、裁可
3.29 麦酒・葡萄酒醸造所、札幌製糸所建設の指令下る
4.7 三所建設のため、札幌在勤となる
5.27 牧畜技師エドウィン・ダン、招募清国人、工部省赤羽製作所職工ら数十名を同行し、東京出発
6.1 札幌到着
6.27 麦酒醸造所建築着手
8.2 鹿児島の祖母、死去
8.6 本庁物産局製煉課在勤となる
8.13 札幌製糸場建物落成
8.17 麦酒・葡萄酒醸造所建物落成
8.30 札幌葡萄酒醸造所竣工
9.8 札幌麦酒醸造所竣工
9.8 麦酒醸造に着手
9.23 麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、製糸所開業式
10.8 麦酒製造見習い人選抜のため有珠郡紋別村へ出張
10.30 東京出張所在勤を命ぜられる
11.15 札幌出発
11.19 東京到着
1877年(明治10)
1.22 職官改正によって開拓権少書記官となる。宿所、東京芝山内三島谷19番地
1.25 麦酒製造雇、中川清兵衛の24ヶ月雇継ぎの稟議書を上局に提出
2.7 札幌から輸送の麦酒貯蔵のため、氷販売業中川嘉兵衛の氷室借用の稟議書を上局に提出。箱崎官用地に北海道物産売捌所建築を稟議
2.15 西南戦争始まる
4.16 札幌農学校教頭クラーク、帰国
4.18 正七位に叙せられる
6.23 札幌産の麦酒と葡萄酒商品化に成功、箱崎官用地船着場に荷揚げされ、中川の氷室へ搬入。皇太后、その他大官諸侯公に献上
9.11 東京府内各新聞に札幌製麦酒の広告を掲載
10.10 石狩郡船場町に開拓使石狩缶詰製造所開業式。これが日本で最初の缶詰製造
11.26 札幌本庁在勤を命ぜられる
12.24 東京・箱崎官用地内に北海道物産売捌所ならびに麦酒蔵建築を再稟談。裁可される
1878年(明治11)
6.7 札幌本庁民事局副長に任ぜられる
7.一 野付郡別海村に開拓使缶詰製造所が竣工
10.16 札幌農学校演武場(のちの時計台)新築なり、生徒分列式を観閲
11.24 綿羊飼育調査のためエドウィン・ダンを伴って七重勧業試験場へ出張
12.2 調所民事局長、黒田長官随行員としてコルサコフ出張のため、民事局長代行
1879年(明治12)
1.17 病気療養のため1ヶ月間の予定で熱海温泉へ出発
2.15 熱海療養を終え着京。そのまま東京滞在
4.8 東京出張所在勤となり、勧業課長に任ぜられる
4.12 丘珠村入地の招募清国人、許士泰、萢永吉を帰化させ、開拓使平民に入籍させる
1880年(明治13)
5.13 進退伺を黒田長官に提出。品川・高崎間の鉄道線路測量のため、工部省官員による二号試験場内の無断伐木によって平常の監督不行届を自省。却下
6.9 東京出張所勧業試験場長に任ぜられる
6.18 五代友厚大阪商法会議所会頭からの書簡を受領(勧業課取調の物産商業上に関する報告書類は細大洩らさずに差回されたし、との要請書)
11.5 工場払い下げ概則によって、1号、2号の勧業試験場を、一般入札法による払い下げ処分を公示
1881年(明治14)
4.29 五代友厚ら、大阪に関西貿易会社設立
5.4 開拓使を辞職
5.11 「奉職中職務格別勉励」につき慰労金200円下賜
6・中 東京出張所廃止。事務を札幌本庁に移す
7.一 辞職した村橋、上磯郡知内村に移り、知内村牧畜会社の社長に就く
7.21 安田定則、鈴木大亮、金井信之、折田平内ら黒田の腹心の幹部が開拓使を辞職し、北海社設立
7.27 黒田長官、北海道開拓使官有物払い下げを申請。一大政治スキャンダル巻き起こる
10.12 官有物払い下げ中止。国会開設の勅諭(明治14年の政変)
1882年(明治15)
2.8 開拓使を廃止し、函館・札幌・根室の3県を置く
3.7 村橋、病のため知内村牧畜会社社長を退任
1883年(明治16)
2.一 村橋、前年設置の明治宮殿造営の皇居造営事務局准判任御用掛となる
1884年(明治17)
4.一 村橋、皇居造営事務局准判任御用掛退任。以後足跡不明
1885年(明治18)
10.26 母、須賀死去
1886年(明治19)
1.26 北海道庁を設置、3県1局を廃止
11.30 道庁、札幌麦酒醸造場を大倉喜八郎に払い下げ
1887年(明治20)
9.一 石狩缶詰製造所を高橋喜兵衛に貸付け。3年後に払い下げ
12.10 札幌葡萄酒醸造場を桂二郎へ払い下げ
1888年(明治21)
1.1 前年末に渋沢栄一、淺野総一郎らによって大倉組麦酒醸造場買収。1月1日から株式会社となる
10.24 札幌紡織場製糸部を足立民治に払い下げ
1889年(明治22)
2.11 大日本帝国憲法発布。文部大臣森有礼、暴漢に刺され翌日死亡
1890年(明治23)
4.1 東京・上野公園で第3回国内勧業博覧会開催。札幌麦酒は「有功賞」を得る
9.25 久成の妻志う、鹿児島にて病没
1891年(明治24)
5.8 村橋、神戸中央区湊川神社に宮司折田年秀(藩時代の仲間)を訪ねる
1892年(明治25)
9.25 村橋、神戸市葺合村において行路病人として救護を受ける
9.28 死亡。仮埋葬。享年53
10.10 「神戸又新日報」に行旅死亡の広告掲載
10.18 新聞「日本」の雑誌欄に「英士の末路」掲載
10.20 新聞「日本」の投稿欄に旧友から寄せられた弔文掲載。旧友の連名で葬儀開催の呼びかけ文各地に発信される
10.23 青山墓地にて黒田清隆ら参列のもと、葬儀とりおこなわれる
(田中和夫編)