北海道開拓使へ

   黒田清隆

 明治2年(1869)、「蝦夷地」は「北海道」に改められ、開拓使が設置された。長官には鍋島直正が任じられた。(鍋島は実務前に辞任し、東久世通禧に替わる)
 明治3年(1870)開拓次官に任命された黒田清隆は樺太と北海道西海岸を視察、実地検分を基に政府へ意見書を提出する。強国ロシア切迫の樺太から一歩後退し、北海道開拓に専念すべきことを強調。その方法として開拓に長ずる外国人を雇い、献言を受けることなどを挙げていた。(「十月の建議」)

黒田はアメリカからケプロンを招聘

 ホーレス・ケプロン

 意見書が入れられて米国へ出張した黒田は、同郷の森有礼公使の斡旋でグラント大統領と面談、現職の合衆国農務局長ケプロンの招聘に成功する。ケプロンは明治4年(1871)7月、黒田に一足遅れて横浜に着く。
 アンチセル、ワーフィールド、エルドリッジら鉱山開発、測量・土木、医療の技師を伴っての来日だった。農業・牧畜のダン、造園のべーマー。地質・測量のライマン、さらには札幌農学校の教頭としてクラーク、教師としてのホイラーとペンハロー、土木・建設のクロフォードらが続いた。
 同じころ黒田は、調所広丈、堀基、時任爲基、永山武四郎、安田定則など箱館戦争で共に戦った薩摩の人達を開拓使に招き、重要な地位に登用した。村橋久成もその一人で、明治4年(1871)に開拓使に入る。北海道に新たな産業を興すことが大きな目標だった開拓使では、留学経験があり、欧米の先進技術を知る村橋は貴重な人材だった。
 開拓使東京出張所農業課主席となった村橋は、ケプロンの提言で開拓使が設けた青山、赤坂、麻布の三ヶ所の東京官園を管理する。そこは外国から輸入した家畜や農産物を試育・栽培し、その中から北海道に適する品種を選別して北海道へ送る役割を持っていた。村橋はダンやベーマーらの協力を得ながら運営の任に当たった。

開拓使東京出張所玄関。東京芝・増上寺の旧方丈跡(明治5年)