二つの「残響」

小説『残響』

  北海道新聞社刊

 市立札幌図書館が時計台内にあった昭和37年(1962)、田中和夫氏は閲覧用の書架にあった『北海道史人名辞典』が目に入り取り出し頁をめくっているうちに、「村橋久成」のところで目が止まった。
「官吏。初め昇介と称し、のち直衛と改めた。鹿児島県士族で~」で始まる記述は、村橋久成の開拓使における官職と業績を簡略に挙げたものだった。
 だが、終わりの「在官中専ら勧業課事務を掌理した。退官後は頗る失意の日を送り、帰国の途中病のため死んだ」とあるのが気になった。
 開拓使の長官 黒田清隆は村橋と同じ鹿児島県士族だが、なんらかの意見の対立のようなものがあって職を奪われ、北海道から追われたのではないか。専横に振る舞った黒田ならやりかねない、と田中氏は思った。これが氏と村橋久成との出会いであり、のめり込む始まりだった。

復刻版、北海道出版企画センター刊

 調べるごとに村橋が関わった事業の多さに驚くとともに、それらが北海道の産業の礎になっていることを知らされた。しかも、製品の海外輸出を図るなど、彼の視野は世界にまで広がっていた。
 昭和51年(1976)、サッポロビールが創業100年を迎えたが、村橋の名はどこからも聞こえず、氏は同人誌「国鉄北海道文学」に小説「残響」の連載を始め、昭和57年(1982)に自費で出版をした。
 この年の秋、「残響」は北海道新聞文学賞を受賞し、同社から改めて出版され、それがきっかけで村橋の名が広く知られるところとなり、北海道久成会の誕生となった。
 この動きは鹿児島にも飛び、かごしま久成会、加治木薩幌浪漫倶楽部などが発足し、南北を結んだ交流が始まった。

胸像「残響」

   胸像「残響」
(銘板揮毫は中野北溟氏)

 村橋の胸像は「若き薩摩の群像」の制作者、彫刻家中村晋也氏(2007年、文化勲章受賞)の作である。田中和夫氏が『残響』を携えて鹿児島市役所を訪れた折、偶然にも中村晋也氏と出会ったことが胸像「残響」誕生のきっかけとなった。
 その後、完成した胸像が札幌の地を踏むまでには、かなりの年月を要することとなった。田中氏は長年探していた村橋の墓が東京・青山霊園にあるのを見つけ、末裔の実孫にもたどり着く。あわせて関係機関に胸像建立の理解を得るための活動に20年の歳月を費やした。
 平成15年(2003)、高橋はるみ北海道知事が道政執行方針演説で村橋の功績を取り上げ賞賛したことに力を得、翌年4月に札幌で「残響」胸像建立期成会が発足し、協賛金集めや設置場所選定等の協議が始まった。
 平成17年(2005)9月23日、北海道知事公館前庭において、村橋久成の胸像の除幕式が執り行われた。開拓使麦酒醸造所開業日から129年、村橋没後113年。
 村橋久成は、不屈の意志を秘めた眼を輝かせ、風に向かって髪をなびかせた躍動感溢れる胸像となって北の大地に蘇った。