辞職、放浪、そして死

突然の辞職

 麦酒醸造所に続き、葡萄酒醸造所の製造が軌道に乗り始めた明治14年(1881)5月、村橋は家族や友人が引き止めるのを聞かず突然辞表を出し、開拓権少書記官の職を捨てて行脚放浪の旅に出た。
 この年、開拓使廃止に伴う開拓使官有物の払い下げをめぐって一大スキャンダルが巻き起こった。黒田長官の息がかかった開拓使幹部が一斉に退官し、北海社なる会社を設立。その北海社が開拓使の20を超える事業施設の払い下げを受ける。払下げ価格は総額38万円、無利息30年年賦という好条件だった。その背後には、村橋たち留学生を引率した関西貿易商会の五代友厚がいた。
 開拓使官有物払下げは「薩摩閥の官財癒着」という新聞の格好の餌食となって、折からの自由民権運動を大きく燃え上がらせた。怒りの声は全国に広まり、これが端緒となって黒田清隆や、黒田の政敵大隈重信を辞任に追い込んだ「14年政変」の始まりとなった。
 村橋の辞職は、この騒ぎの直前だった。辞職は開拓事業を私物化しようとする同郷人に怒りと失望を感じ、それら払い下げの経緯すべてを知っていた村橋の、無言の抗議だったのだろうか。
 神戸の路傍で発見された村橋の行脚放浪の旅は、謎を秘めたまま終わった。

終焉

   神戸掲載された死亡広告

 神戸又新ゆうしん日報を見て、同郷人の神戸警察署長の野間口兼一へ急報したのは旧友の愛知県知事の時任爲基だった。哀悼の言葉と共に丁重な扱いを依頼し、仮埋葬の諸経費は急送する旨が書かれていた。
 10月18日の新聞「日本」の雑報欄には「英士の末路」と題する長文の記事が載った。翌々日の10月20日の同紙の投稿欄には旧友から寄せられた弔文が載った。
 「はかなみし君もはかなくなりにけり はかなきものは扨もうき世か」
 村橋の死は新聞「日本」の記事で、たちまち旧友たちに知られることになる。新聞記事を読んだ逓信大臣の黒田は「同志、同郷人として哀悼の意を表したい」と述べ、葬儀開催の呼びかけ文を全国に散らばる旧友に発信した。香典料人名帳の記帳と会計実務は貴族院議員の湯地定基と逓信大臣秘書官の佐藤秀顕が担当した。湯地と村橋は共に薩摩藩の留学生、農業試験場開設でも力を尽くした仲間。北海道に洋式農業を、という思想も理念も同じだった。佐藤は元開拓使物産局長で村橋の下僚だった。
 香典料人名帳の筆頭には「伯爵黒田清隆」と「伯爵夫人黒田瀧子」の署名がある。香典料人名帳には30数人の氏名が書かれている。山内提雲、陸奥宗光、堀基、調所広丈、永山武四郎、時任爲基、湯地定基、折田平内、佐藤秀顕、長谷部辰連、小牧昌業、仁礼景範、西徳二郎、森岡昌純、堀直樹、森長保、二木彦七、内藤兼備、加納通広、足立民治、阿部隆明、上野正など、幕末から維新、明治にかけて激動の時代を村橋と共に生きた者たちが破格の香典を寄せ、また村橋の葬儀に参列している。
 葬儀は10月23日午前10時から青山墓地式場で、神式で執り行われた。参列者の中には黒田清隆、湯地定基、佐藤秀顕、前田清照、柳田友郷、山口昇ら在京の旧友たちの姿があった。

残されている葬儀時の「香典料人名帳」の一部
筆頭には、自筆で伯爵黒田清隆(逓信大臣)と夫人瀧子、続いて森岡昌純(日本郵船社長)、山内堤雲(鹿児 島県知事)、湯地定基(貴族院議員)、陸奥宗光(外務大臣)、堀基(前北海道炭磧鉄道社長)、佐藤秀顕 (逓信大臣秘書官)、長谷部辰連(貴族院議員)、小牧昌業(奈良県知事)、調所広丈(鳥取県知事)、鈴木大亮(逓信次官)、永山武四郎(屯田司令官)、仁礼景範(海軍大臣)……と続く
(サッポロビール博物館蔵)