「残響」二人の作者

小説『残響』あとがき 小説家 田中和夫(「札幌文学」主宰)

(1999年7月、北海道出版企画センター刊の復刻版「残響」に掲載されたもの)

 昭和五十年から三年間にわたって国鉄北海道文学(現・鉄道林)に連載したこの作品は、昭和五十八年に北海道新聞社から単行本として出版された。だが、執筆中から気にかかっていたのは村橋久成の遺骨の行方だった。死亡まもなく、神戸の又新ゆうしん日報に行旅病者村橋久成なる者の死亡広告が載るのだが、はたして身内の者に引き取られたのだろうか。それとも死亡広告が身内の者の目にとまらず、今も神戸のどこかで無縁仏になってはいないか、ということだった。鹿児島の村橋信道さんともども神戸市役所を通じて神戸市内の寺院に照会したが、反応はなかった。半ばあきらめながら、それでも東京の二、三の公営墓地に照会もしてみた。
 ところが昭和六十年四月、意外にも東京の青山霊園に墓が建立されていることが分かった。さらに、霊園管理事務所保存の墓籍簿を頼りに調べたところ、村橋久成の実孫が健在であることも分かった。
 「正七位村橋久成墓」とだけの簡素な村橋久成の墓前に詣でた翌日、都内品川区大井町に住む実孫の村橋御代みよさんを訪ねた。前夜、訪問の目的を電話で話してあったのだが、御代さんはなおも納得しかねる様子で私を待ち受けていた。札幌から来ました、と言っても不思議そうな顔をするばかりだった。
 明治三十七年生まれの御代さんは、そのとき八十歳。柔和な表情の中にもきりっとした目許は気品に溢れていた。
 その御代さんは、祖父の久成が北海道と関わりがあったことなど知らないでいたようだった。久成が神戸で亡くなったことは知っていたが、それ以前のことは父親から何も知らされていなかったのである。それどころか、英国へ留学までした人なのに、何があったにせよ家族も地位も捨てて托鉢僧に身を変え、行脚放浪の果てに行き倒れで死んだ祖父久成を、御代さんは恥じているようだった。
 そんな御代さんに、屯田兵村の創設やビール醸造所、葡萄酒醸造所、製糸場、博物場、鶏卵艀化場などの建設に尽力したこと、特に現在のサッポロビールは村橋久成の情熱なしでは誕生しなかったことなど、北海道の産業振興にいかに業績があったかを熱っぽく説明した。
 御代さんの膝元に資料を並べ、一方的に説明しまくる私に驚いていた御代さんだったが、ようやく納得したようだった。そして、
「長生きをしてよかった」
 とぽつりと言った。実は、埋もれたままでいた村橋久成を北海道の歴史の表舞台に登場させ、陽を当てたことを私なりの喜びにしていたのだが、御代さんのこの言葉を聞いた時、私はこれまでとは違う、新たな喜びのようなものを感じたものだ。 (一一後略一一)

田中 和夫(たなか かずお)
1933年北海道江別市生まれ。江別高校卒業。1952年国鉄就職。1987年札幌車掌区車掌長で国鉄退職。1971年小説『トンネルの中』で第23回国鉄文芸年度賞。1982年小説『残響』で第16回北海道新聞文学賞。1983年国鉄加賀山賞。1988年北海道文化奨励賞。
現在北海道鉄道文学会幹事、北海道文学館評議員、札幌文学編集人、鉄道林発行人。
主な著書に『残響』、『物語サッポロビール』、『北海道の鉄道』、『幻の木製戦闘機キ106』、『車掌の仕事』(以上、いずれも北海道新聞社刊)。

輝く日に勝負を挑んで 彫刻家 中村晋也(文化功労者、日本芸術院会員)

(2005年9月23日、村橋久成胸像「残響」建立記念誌より)

 私が初めて北海道を旅したのは、今から20年ほど前のことだった。白樺の、何ともいえない木肌の色合いに私はすっかり魅せられた。凜として立つその姿に、この地で溢れるほどの情熱を燃焼した村橋の姿が重なった。
 当時の私は、「若き薩摩の群像」を制作中だった。これは、江戸末期に薩摩からイギリスへ密航して、先進諸国の文化を学び、日本の近代化に貢献した17人の若き薩摩人の留学生の群像である。むろんその一行の中に村橋久成もいた。イギリスで撮られた彼らの集合写真は、制作のための貴重な参考資料だった。皆、フロックコート姿がよく似合った。青年村橋もまたしかり。
 その後、北海道大学の図書館で村橋久成の写真が発見された。その写真は、爛々と輝く大きな目をした決意に満ちた男の顔だった。北海道開拓に全身全霊をかけた村橋の生き様がそのまま写し出されていた。凄い。参った。私は一瞬にしてこの写真に惹きつけられ、これを制作したいと強く思った。感動さめやらぬうちに、鹿児島のアトリエで制作が始まった。極寒の地で凛然として生きる男の力強さと、その目の輝きが勝負だと思った。私は写真を食い入るように見つめ、写真の中の村橋の目と格闘しながら制作を進めた。なかなかいい勝負だった。
 田中和夫著『残響』と出会ったのもこの頃だった。そして村橋を慕う多くの方々とも出会った。胸像の題名「残響」はその本からいただいた。本の中の村橋も、デリカシーと芯の強さを併せ持った清廉潔白な人物像が描かれていた。村橋の生き様は今でも人々を魅了し続けている。
 この度、ご縁をいただき、この胸像が北海道に建てられることになった。聞けば、札幌の知事公館前庭とのこと。村橋さん、よかったね。近代日本の曙の頃、あれほど愛し、あれほど情熱を傾けたこの地の人々が、また呼び戻してくれた。
 札幌の人々は長い間、この日が来るのを、あれからずっと待っていたにちがいない。
 本当によかった。
 私も一枚の写真に出会って、このような感動的な歴史の一幕に参加させていただけることに感謝している。

中村 晋也(なかむら しんや)
三重県亀山市出身。東京高等師範学校卒。1949年鹿児島大学講師、1966年フランス留学、1972年鹿児島大教授。1982年「若き薩摩の群像」建立。1984年日展文部大臣賞受賞、1988年日本芸術院賞受賞、1989年日本芸術院会員、1992年鹿児島大学退官、名誉教授。1994年日本彫刻会理事長、1996年中村晋也美術館設立。1999年崇城大学副学長、芸術学部長。勲三等旭日中綬章受章。2002年紺綬褒章受章、文化功労者、2007年文化勲章受章。筑波大学名誉博士。日展顧問