七重農業試験場、琴似屯田兵村

七重農業試験場の開設

 明治6年(1873)7月、函館郊外の七重村開墾場の担当となるが、そこは明治2年(1869)に榎本武揚らが作った蝦夷島共和国が、函館在住のドイツ人ガルトネルに99年間にわたって貸し付けた300万坪の土地だった。明治4年に莫大な金を払って取り戻したのち、東京出張所の直轄地にして農業試験場を創設することになった。その役割を命じられたのが村橋だった。
 北海道に移植するための農作物を東京で試験栽培することに異論を唱え、北海道で栽培するものは最初から北海道で試験栽培すべきと唱えていたのは村橋だった。七重に赴任した村橋は全地の測量を行って農地や牧場の地目を決め、牛舎や搾乳場、バター製造場、あるいは鮭の艀化場建設予定地を決めるなど農業試験場創設へ向かって、着々と準備を進めた。
 11月には事務所、生徒舎、看守所、牛馬羊舎、搾乳所、倉庫などが落成したので、東京官園から農業現術生若干名を移転させ、果樹、雑穀、疏菜などを栽培し、牧畜を試養するようになった。場内に仮病院を設け、生徒や農夫らの傷い疾病を治療できる体制も整った。
 その村橋にはもう一つ、札幌周辺に屯田兵村を設けるという大きな任務が与えられていた。

     明治10年頃の開墾場の風景(北大図書館蔵)
七重勧業試験場器械倉庫と馬具置場前での器械展示(北大図書館蔵)

琴似屯田兵村の建設

       琴似屯田兵屋(北大図書館蔵)

 明治6年(1873)の3月、樺太の函泊でロシア兵によって日本人漁民の住宅や倉庫が放火されたうえ、暴行を受ける事件が頻発した。政府部内では樺太出兵の強硬論も出たが、対ロシアの軍備が整わない現状では外交交渉に委ねるほかなかった。
 このあともロシアの南樺太進出は活発になり、ついに交渉は南樺太を放棄し、樺太と千島の交換という領土問題にまで発展、樺太問題は緊迫する一方だった。
 同年12月、北海道・樺太の移住民の保護と開拓に従事する屯田兵設置の建白書が開拓次官黒田清隆から出され、直ちに決定された。黒田の建白は戊辰戦争参加の強壮で兵役に耐える東北諸県の貧窮士族を選抜、札幌など主要な地に一家をあげて移住させ、開拓と警備両面の役割達成を主張していた。
 特命を受けた村橋は明治7年(1874)3月に七重を発ち、札幌に向かった。札幌では屯田兵200戸1中隊の入植に適当な地を調査した結果、札幌西部の琴似に決定した。
 銭函と札幌を結ぶ銭函通りの発寒川に架かる発寒橋の東側一帯で、札幌を防備する最適の地といえた。東京出張所と札幌本庁との問で、屯田兵入植の趣旨を巡って意見の相違などの問題が起きたが、4月には予定地域の樹木の伐採や測量、地画割り作業が完了した。
 兵屋は一戸あたり150坪の敷地に一戸建て17坪半で、配置は集村・密居制。中隊本部前には養蚕室と製糸室を一体化した授産施設の敷地が確保された。
 屯田兵は3年間の扶助期間を終えた後は自活の道を探さなければならない。村橋は、生糸生産から絹布・紡織へ進む繊維事業を企画していた。

         琴似屯田兵村の兵屋配置図
         琴似屯田兵屋(国指定史跡)

琴似兵村
 明治8年(1875)に198戸が入植、その後追加や分家補充により208戸となる。翌年には発寒に32戸が入植し、琴似屯田兵村の分村となり、合計240戸をもって第1大隊第1中隊が編成された。
入植第1号で試行錯誤を重ねたこともあり、その後各地に新設された兵村の指導者を数多く輩出し本道開拓のリーダーの役目を果たした。

山鼻兵村
 明治9年(1876)5月、東屯田と西屯田(国道230号を挟み、東側と西側の地域)にそれぞれ120戸が、本州の青森、坂田(現在の山形)、宮城、秋田そして北海道の伊達から士族の志願者が家族連れで入植(1,114人)。
 当初、北府・札幌の治安維持という任務もあったという。

新琴似兵村
 現在の札幌市北区新琴似地区に開かれた屯田兵村で、明治20年(1887)年と翌年の2ヶ年に、中国、九州地区など8県から計220戸が入植。

篠路兵村
 明治22年(1889)7月15日、最後の士族屯田兵(9番目の屯田兵村)として、徳島・和歌山・山口・福岡・熊本・福井・石川の7県から220戸(1,056人)が入植。
 標高が低い土地で度々水害に見舞われ、特に明治31年(1898)9月の大水害では壊滅的な状況になり、土地を離れざるを得ない屯田兵が多く出た。明治40年(1907)頃には、72戸555人に減った。

明治8年(1875)年の琴似(札幌)を皮切りに明治32年(1899)の士別・剣淵まで、全国から集まった屯田兵7,337名とその家族は、北海道内の37兵村に入植し、地域の産業文化とまちづくりの基盤を作った。

(北海道屯田倶楽部より)