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  村橋久成「残響」
   平成17(2005)年9月23日
   北海道知事公館前庭に建立
   制作:彫刻家 中村晋也氏
   銘板揮毫:書家 中野北溟氏

二つの「残響

田中和夫氏の小説『残響』の文学賞受賞と、当時の北海道知事 高橋はるみ氏が所信表明演説の中で功績を取り上げたことを契機に、歴史の中に埋もれていた村橋久成の名が知られるところとなる。
「若き薩摩の群像」の作者・中村晋也氏の手による村橋の胸像にも「残響」の名が付された。銘板揮毫は書家 中野北溟氏。

薩摩藩英国留学生

幕末に薩摩藩は15人の留学生と4人の使節を密かにイギリスに派遣した。村橋はその薩摩藩英国留学生(サツマ・スチューデント)の一人だった。藩主・島津斉彬の生前の構想が五代才助(友厚)の建言により実現した。五代も引率者として同行した。

函館戦争

村橋がイギリスから帰国した翌年に大政奉還。翌慶応4年、戊辰戦争が始まり従軍。箱館戦争では政府軍の軍監として指揮。
榎本軍降伏への仲介を旧幕軍医師 高松凌雲に依頼する。
「すでに勝敗は決している、互いに無駄な血は流すまじ」と。

北海道開拓使

開拓次官 黒田清隆に招かれ、開拓使に入る。開拓使幹部として北海道に近代産業を興すために様々な事業を担当し働く。
【担当した主な事業】
麦酒醸造所・葡萄酒醸造所・製糸所・缶詰製造所・牧羊場・桑園・仮博物場等

開拓使麦酒醸造所

麦酒醸造所を東京青山の農業試験場に建設するという決定に対し「麦酒醸造所は、初めから札幌に造るべし」と進言し札幌建設を実現させた。
サッポロビールの前身ともいえる「開拓使麦酒醸造所」建設のプロジェクトリーダーとして指揮をとる。

お雇い外国人

日本の近代化に外国人が果たした役割は大きい。とりわけ北海道の開拓には「お雇い外国人」たちの働きは重要だった。
村橋もエドウィン・ダンやルイス・ベーマーらと協力しながら開拓業務に力を尽くした。

辞職、放浪、そして死

開拓使官有物の払い下げをめぐって、一大スキャンダルが巻き起こる直前の明治14年(1881)5月、村橋は突然辞表を出し行脚放浪の旅に出た。辞職は開拓事業を私物化しようとする同郷人に怒りと失望を感じ、経緯を知っていた村橋の、無言の抗議だったのだろうか。神戸の路傍で発見された村橋の行脚放浪の旅は、謎を秘めたまま終わった。

史跡や史料館を訪ねて
主に幕末から明治期に関する、
歴史的建造物・像や場所、又
史料館を訪ねる。