開拓使麦酒醸造所

麦酒醸造所は札幌へ!

   村橋久成

 提出した建設地変更を迫る稟議書には、黒田をはじめ開拓使幹部の押印はあったが、朱色の許可、裁可、指令の文字はなかった。村橋は再び稟議書を書き、醸造所の図面、建設見積書を添えて自ら幹部の前に立つ。
 明治8年(1875)12月、稟議が認められ、醸造所の建設地が東京青山から北海道に逆転変更となった。だが黒田の特命で、葡萄酒醸造所と製糸所も同時に札幌に建設せよ、という重責を負わせられての裁可だった。それからの村橋は、何かにとりつかれたかのように醸造所などの建設に没頭する。

   中川清兵衛

 麦酒醸造は中川清兵衛に任された。越後の与板生まれの中川は村橋が留学した慶応2年(1865)4月に密出国して英国に渡る。その後ドイツに移り、留学中の青木周蔵の斡旋で最大手のベルリンビール醸造会社で醸造技術を学んだ。
 明治8年(1875)に帰国したのは開拓使麦酒醸造所建設の情報を得た青木の勧めによるものだった。
 帰国した中川と村橋の息が合った作業が始まる。中川は醸造所の設計と資材の調達。村橋は醸造所用地の選定から建築資材、麦酒原料の入手、建築費の確保や人材の手配に奔走した。
 中川が醸造を学んだドイツでは、麦汁を10度以下で冷やして発酵させる下面発酵という方法を用いていた。それには冷却のための大量の水が必要だった。村橋は醸造所用地に札幌を選んだ。そこは豊平川扇状地と呼ばれる一帯で、すぐ脇を伏篭川が流れ、地下水も豊富だ。厳冬期には凍結する豊平川から、貯蔵や輸送に必要な「氷」を採取することもできる。

開拓使麦酒醸造所の開業

開拓使麦酒醸造所開業式(北大図書館蔵)

 明治9年(1876)5月、村橋は麦酒醸造人の中川清兵衛、葡萄酒醸造人の畑新治郎をはじめ製糸所、鮭艀化場、製物場、仮博物場、鮭缶詰製造所などの関係者、丘珠村入植の清国人農夫10人を含めて50人を超える者たちを率いて札幌にきた。同行者の中には開拓使顧問の牧畜方エドウィン・ダンや培養方のルイス・ベーマーもいた。
 このとき本府札幌の人口は1,000人前後、丘珠村や元村など周辺を合わせても3,500人前後だった。札幌は開拓使の本庁があるとはいえ、市場やインフラなどの基本施設も不完全、鉄道もなく、道路も不完全。荒涼とした原野のようなところだった。ビールがまだ世に知られていないころ、人影まばらな札幌にビール工場を作る。まさにこれは奇跡の始まりといえた。
 建設工事は麦酒、葡萄酒、製糸の3所とも予定通り、2ヶ月の工期を守って8月にはそれぞれ落成、9月23日に一斉に開業式を行った。麦酒醸造所では関係者が並んだ横にビール樽が山形4段に積み重ねられ、その表面に白塗料で「麦とホップを製す連者ればビイルとゆふ酒に」と大書された。麦酒の需要拡大を狙った村橋の発想なのか。いよいよ開拓使麦酒、冷製麦酒の醸造が開始された。

販路の拡大へ

 醸造所の完成と最初の仕込みを見届け、村橋が東京出張所に戻ったのが11月だった。これからの村橋の重要な仕事は札幌から届く製品の受入れと販売の体制づくりであるが、次々と問題が起こる。
 中川清兵衛らの待遇も含めた雇用継続問題、ドイツから取り寄せた酵母の不良による醸造の遅れ、別ルートでの買い入れの交渉、またビール瓶の確保や輸送時の品質保持の体制等である。
 同じ時期、世情は西日本を中心に騒然としていた。熊本での神風連の騒乱に始まり、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱、東京・思案橋事件など政府の施策に反対する不平士族の反乱が起こっていた。

 肝心のビールの味はどうだったのか、外国人のいくつかの評価の声が伝えられている。
「ビールの色は鮮麗で光輝いているが、やがて赤味を帯び、若干の時間がたつと泡が徐々に上昇する。
 苦みもよいし、なによりも2回にわたって覚える芳香はもっとも愉快である」(ペンハロー)
「札幌で醸造された冷製ビールは実に良好で、完全と言える。横浜醸造所のビールよりはるかに良くなっている」(コルセルト)

第1号ラベルの原図(道立文書館蔵)

 暖冬や酵母の不良などの問題があったが明治10年(1877)5月、麦酒醸造所は日本人の手による麦酒の製品化に成功した。村橋は、醸造成功の知らせを東京で聞いた。
 小樽から開拓使の官用船で運送される樽詰めの麦酒は、隅田川沿いの日本橋箱崎町の開拓使官用地の船着き場に荷揚げし、氷商の中川嘉兵衛の氷蔵へ運んで樽から瓶に移し替える。製瓶工場がなかったので港町に外国人が持ち込んだ瓶を買い集めた。商品となった麦酒は北海道物産縦覧所を改めた芝増上寺境内の開拓使の仮博物場へ運ばれ、そこで一般の人たちに販売された。それが村橋の東京での仕事だった。
 東京へ運送するコストなどの問題はあったが、新聞広告の効果もあって札幌産の冷製麦酒の売れ行きはよかった。生産高も年々増加し、2年後には創業時の2倍の生産能力を持つ醸造所に改築された。その後村橋は札幌本庁民事局副長や東京出張所勧業課長を歴任し、開拓使幹部20人中の8番目あたりの地位に累進した。
 その間関わった仕事には鮭孵化場、石狩鮭缶詰製造所、工業試験場の前身の製物場、仮博物場、種羊場などがある。麦酒醸造所を作り上げた時のような勢いで次々と作っていく。