箱館戦争

戦争終結の和平交渉に一役買う

   榎本武揚

 村橋がイギリスから帰国した慶応2年(1866)は15代将軍徳川慶喜が大政を奉還する前年だった。慶応4年(1868)、村橋は加治木大砲隊の隊長として旧幕軍と戦うため鹿児島を出発、新潟、山形、青森、箱館と転戦する。
 箱館戦争では政府軍の参謀に次ぐ軍監として全軍の指揮を執る。英国で陸軍学術を学んだ経験を活かし、村橋は講和交渉の中心人物の一人として力を尽くした。
 箱館戦争末期、五稜郭総攻撃を数日後に控えた深夜、村橋は旧幕軍側の箱館病院の医師高松凌雲を訪ね、五稜郭に立て籠もる榎本武揚の恭順説得を依頼する。「すでに勝敗は決している、互いに無駄な血は流すまじ」と。

   高松凌雲

 高松からの書面を見た榎本はいったんは拒絶するが、軍門に下って自分が処刑されることで兵たちの助命が叶えば、と嘆願する方向に転じる。
 榎本は降伏し、五稜郭は無血開城。戦いは終わり、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は終結した。
 しかし、鹿児島で待っていたのは悲しい出来事だった。村橋の参戦中に弟・宗之丞は長岡で戦死。顔も見ていない息子・亀千代は2歳で病死し、妻の志うは責任をとり実家に戻っていた。

亀田八幡宮で榎本を待つ鎮撫総督府軍使一行。右端が村橋(市立函館博物館蔵)

軍監 村橋 直衛  北海道文学館名誉館長 木原 直彦

(2005年9月23日、村橋久成胸像「残響」建立記念誌より)

久成会顧問 木原直彦

 「大黒屋光太夫」や「落日の宴」など確固とした歴史小説を紡ぎつづけている吉村昭さんの存在は、大きくて重い。その御本人が言われるように、「熊嵐」「赤い人」「間宮林蔵」などの本道の歴史事件に取材した作品を多く持つ“北志向”の作家でもある。
 平成12年に刊行した「夜明けの雷鳴一医師高松凌雲」(文藝春秋刊=文春文庫)もその一つだ。「幕府軍艦『回天』始末」(文春文庫)を書いたとき気になった人物であると述懐しているが、近代医療に博愛と道義を貫いたことで知られる。徳川昭武(15代将軍徳川慶喜弟)の随員としてパリに赴いて近代医学(その精神)を学んで帰国した彼は、恩義に殉じ旧幕臣として箱館戦争に参加する。その折、壮絶な戦場のなかで敵味方の区別なく治療を行ったのだが、数多い箱館戦争もののうち凌雲を主人公に据えた長篇小説は「夜明けの雷鳴」のほかにない。
 徹底して資料を渉猟するなかで構築したその史観は定評のあるところだが、この小説のなかに村橋久成が重要な人物の一人として登場するので紹介したい。その出会いは感動を呼ぶ。
 時は箱館戦争のさ中、凌雲は病院頭取医師取締として箱館病院の全権をまかされていた。戦いが激化し多くの負傷者が運ばれてきたなかに敵兵もいて、「戦死した者の仇だ。殺す」と刀に手をかける者もいる。
 凌雲はパリの“神の館”という医学校兼病院で学んだことをふまえ、「富める者にも貧しい者にも同じ治療をほどこし」「敵方の傷病者も味方の傷病者同様、ねんごろに施療する」と信念を貫く。
 間もなく久留米・薩摩両藩兵がなだれ込んできて「斬れ、撃て、なにを容赦している」と殺気だって叫ぶ。
 凌雲は主張をつづけながら、死を覚悟した。そのとき一方の旗頭のような男が「貴殿の言われることはよくわかった。傷病者は必ず救命する」とのべた。薩州隊の山下喜次郎である。凌雲は膝がくず折れそうな感じがしたが、分院において松前・津軽両藩兵によって十数名の傷病者が斬殺されただけに、あらためて山下が得がたい存在におもえた。
 夜が更けて、薩州隊軍監村橋直衛、藩士池田次郎兵衛と名乗る二人が面会を求めてきた。山下から聞いたが、知り合いである入院者の会津藩遊撃隊長諏訪常吉殿に頼みたいことがあると言う。村橋は現在の情勢を述べ、大勢は決した、官軍はいたずらに殺傷は好まぬ、ゆえに榎本軍に和平の斡旋の労をとって欲しい、というのだ。だが、諏訪は重傷でその任に耐えない。ならば、と村橋は、貴殿にこの任をお引受けいただきたいと言った。
 榎本総裁らにとって降伏は最大の屈辱であろうと思う凌雲は、強く断わりつづけた。しかし村橋は「和平を斡旋していただくのに、最もふさわしいお方と存ずる」とくい下がる。論の立つ男だ、と凌雲は胸の中でつぶやき、戦闘がつづけば大量の死傷者が出るのはまちがいないし、「和議が成った後、榎本総裁をはじめ首脳部の方々を温く遇すると言われたが、それが事実ならお引受けすべきと存じます」
 以下、凌雲らが榎本らを相手に息づまるような交渉が描かれているが、講和のため大役を果したのだった。そのなかで、村橋が端正な態度を取りつづけている姿が印象的である。明治2年5月18日、五稜郭の榎本軍は全員降伏した。
 凌雲が貧民救済のため同愛社を創立したのは明治12年であったが、それから30年後に乞われて史談会で箱館戦争の体験を語って感銘を与えた。このとき寺師宗徳と名乗る男に、村橋と池田のことをご存知か、と聞かれた。凌雲は即座に「知っているどころか、私には恩人です」と答えた。凌雲はさっそく元海軍大佐である池田の佗び住いを尋ね、二人はうわずった声で再会を喜び合う。村橋のことを聞くと、池田は悲しげな色を浮べながら、明治25年10月の日本新聞をひろげた。そこに「村橋久成の末路」という長文の記事がのっていて、村橋が並々ならぬ人物であることをはじめて知る。「行路死亡人」の活字を眼にして「体格が逞しく、鼻梁の秀でた男らしい風貌の村橋の姿が思い起された。高官にまでなった村橋が、なぜ官を捨てて雲水に身をやつして行方を断ったのか」
 池田は深く息をつくと「その新聞記事を見た時には、眼を疑いました。村橋殿の諄(いみな)が久成と知っておりましたので……名家の出らしく気品があり、それでいて豪胆でした。思慮深い方でありましたから、なにか思うところがあってさすらいの旅に出られたのでしょう」
 凌雲は帰りの人力車のなかで、村橋はなぜ野垂れ死にのような死に方をしたのだろう。軍監として市中巡回の折におびただしい死体を眼にし「生れ育ちが良いだけにその折の記憶が年を追うごとに増幅し、人間の生命の儚さ、世の無常が胸にせまり、官を捨て瓢然と家を出たのではあるまいか」
 読後、高義な二人の交わりに感銘を覚える。それは運命的な出会といっていい。

木原直彦(きはら・なおひご)
 1930年胆振支庁管内厚真町上厚真で生まれる。1966年北海道文学展実行委員会事務局長、1967年北海道文学館事務局長、のち館長。1995年に財団法人北海道文学館副理事長と北海道立文学館館長を兼ねる。現在は同財団顧問と同館名誉館長、日本文藝家協会会員、オホーツク文学館顧問、NPO法人さっぽろ時計台の会会長、札幌市民憲章推進会議議長など。
1965年北海道文化奨励賞、1975年北海道新聞文学賞・札幌市民文化奨励賞、2002年北海道文化賞、2004年北海道新聞文化賞、2006年地域文化功労賞(文部科学大臣)、2012年北海道功労賞を受賞。
久成胸像建立期成会会長、北海道久成会顧問。