東京農事試験場

 琴似屯田兵村の地画割りを終え、兵屋の建築に取り掛かると同時に東北各県での屯田兵募集が始まるのを見届け、村橋は七重に戻った。年が替わった明治8年(1875)2月、村橋に東京出張所在勤の辞令が届く。後任は同郷の東京出張所農業課大主典の湯地定基だった。
 湯地は、村橋らが英国へ立った翌年、第2次薩摩藩留学生として米国へ渡り、マサチューセッツ農科大学へ留学した。ケプロンが来日した時、ケプロンの随行通訳として急遽、帰国し開拓使に入った。ケプロン帰米のあとは東京出張所、そして七重へと村橋の後を追っている。すべては黒田の差配に違いなかった。
 東京へ戻って間もなく村橋は奏任官の七等出仕となり、東京官園を改称した開拓使東京農事試験場の場長に任命された。辞令には「麦酒製造担当」と書かれてあった。

トーマス・アンチセル

 ケプロンの指示で北海道の地質調査を任ぜられたトーマス・アンチセルが岩内で野生のホップを発見したのは明治4年(1871)8月だった。報告を受けたケプロンは無視したが、アンチセルは輸出用のホップ栽培を勧めた。
 外国産麦酒の輸入は年々急増し、明治政府は勧業政策の一環として麦酒醸造に興味を持っていたので、ホップ栽培はそのまま開拓使による麦酒醸造所建設計画へとつながってきていた。

麦酒醸造所建設地変更を迫る稟議書を提出

 明治8年(1875)、開拓使は上局会議を開いて醸造所建設を決定した。建設担当は村橋久成。七重からの転任は、辞令に書かれていた通り「麦酒製造担当」のためだった。
 建設予定地は、東京新名所の一つになっていた東京青山の開拓使農業試験場1号地だった。珍しい輸入植物や最新技術を一般公開し、開拓使事業を宣伝しようとする黒田の政治的もくろみでもあった。
 「北海道の農業振興が目的で麦やホップを栽培し、それを原料に麦酒を造るのだから、醸造所は最初から北海道に作るべき。北海道には建設木材も十分にあり、気候も麦酒造りに適している。建設場所や水利、運搬についても適応の地があるので、再評議のうえ至急の指令を相成るよう──」
 村橋は建設地変更を迫る稟議書提出に踏み切る。失敗すれば全責任が自分にかかる。奏任官七等出仕の地位をかけた、覚悟のうえの稟議書提出だった。

建設地変更を求めた稟議書(道立文書館蔵)
大意
「さきごろよりビール製造のため、醸造人の中川清兵衛を雇い入れ、製造場所や醸造器械などを調べ、別紙の通り図面もでき、建設費も見積もった。ただし、これは試験のため東京に建設するというための見積もりである。しかし、北海道には建設用の木材も豊富であり、気候もビール醸造にふさわしく、低温を得るために必要な氷雪もまた十分に有るので、最初から実地へ建設したほうが移設・再建の出費を省き、非常に経済的であると考える。ついては来春から北海道へ建設することといたしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適応する地域があるのを知っている。どうか評議のうえ、至急、指令を下されるように」