北海道樺戸郡月形町1219 TEL.0126-53-2399 (旧樺戸集治監本庁舎/博物館本館/農業研修館) 日本遺産(『炭鉄港』構成文化財)) 北海道遺産(『北海道の集治監』構成遺産)
明治14年(1881)、月形村開村、樺戸集治監開庁、初代典獄に月形潔が就任する。
集治監とは重罪犯を収容する特別な刑務所だが、旧薩摩や長州のリーダーが主導する明治政府への不満が募り、旧士族たちの反乱(1874年「佐賀の乱」、76 年の熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」そして1877年(明治10)西南戦争)が相次ぎ、鎮圧された結果、膨大な数の「重罪人」が生まれた。これらを内務省が一元的に直轄する専用施設が必要になり、集治監の誕生となった。
集治監は明治11年(1878)、まず東京(小菅集治監)と仙台(宮城集治監)に建てられ、3ヶ所めとして北海道が選ばれた。立地調査の段階から初代の典獄(監獄長)となるまで、北海道の集治監立ち上げに深く関わったのは、福岡藩出身で内務官僚だった月形潔(1847~1894)だった。
集治監にはもうひとつの役割があった。明治12年(1879)、内務卿伊藤博文が太政大臣三条実美に「凶悪犯や政治犯たちを北海道の開墾や道路建設に就かせ開拓に役立たせる。集治監によって国の治安は維持され、北海道の開拓は進み、さらに刑期を終えたあとは北海道に定住させれば土地の発展に貢献できる」という建議書をあげた。北海道に送られるのは刑期12年以上の重罪犯とされた。
明治13年(1880)5月、月形潔を団長とする集治監選定の調査団が来道。先住のアイヌ民族以外に定住者もほとんどいなかった石狩川をさかのぼった須部都地方を選ぶ。背後は樺戸や増毛の山地、手前には石狩川が行く手を塞ぎ、石狩川の水運が活用できることが大きな利点だった。
囚徒の半数以上は懲役終身、無期徒刑の重罪犯。主な罪名には強盗、強盗傷人、謀殺、放火、窃盗などもあったが、政治犯の多さが特筆される。赤い囚人服を着せられた囚人たちは、過酷な労働の日々で危険も多く、月形潔の在任中だけでも、死者が300名を数えた。
集治監の開設に伴い、一帯には看守やその家族も移り住み、輸送や物資の納入などに関わる出先も増えていき、集治監を中心に、石狩川中流に新しいまちが一気に生まれた。 明治14年(1881)当時の札幌の人口は、ようやく約9000名という時期だった。
明治19年(1886)1月、三県一局が廃止されて北海道庁が設置され、樺戸集治監は道庁長官の指揮下に入る。この時点で北海道には、市来知(現・三笠市)に空知集治監、標茶に釧路集治監ができていた。同年4月、北海道庁初代長官岩村通俊は、第2代典獄安村治孝に、市来知と忠別太(現・旭川市)のあいだ約88キロを結ぶ上川仮道路の開削を命じた。
翌87年5月には、全道郡区長会議において全道基幹道路の計画が発表され、これ以降、樺戸、空知、釧路、各集治監の囚徒たちを主な労働力とした、日本の土木工事史上もっとも苛烈な囚人道路の工事が次々と着工した。上川道路の次はさらに難工事の北見道路、樺戸道路、手塩道路などが多くの犠牲者を出しながら開かれていった。
陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があったからであり、北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは囚徒たちであった。囚人たちが北海道の開拓において果たした役割は大きかった。明治14年(1881)から大正8年(1919)までの集治監が設置されていた38 年間に、1,046 名もの囚人が死亡したという。(月形町HP参照)